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HISTORY

自由であれ。
美しくあれ。

〜伊勢半グループ190年のあゆみ〜

挑戦と変革

伊勢半グループの歴史は、文政8年(1825年)、江戸・日本橋で創業した紅屋「伊勢屋半右衛門」、通称「伊勢半」からはじまります。

以来195有余年、私たちは伊勢半の原点とも言うべき「紅※」を守り続けるとともに、時代を彩る最先端の化粧品を通し、輝くような美しさを引き出すための活動をしてまいりました。
人々を驚かせる技術力、探究心、品質の高さにこだわる職人気質は、伊勢半グループ全体に息づいています。

これまで多くのヒット商品を世に送り出してきた伊勢半グループの足跡は、時代を先取りする発想と、信念をもって取り組んだ高品質なものづくりによるものです。
1825年からはじまる伊勢半グループの歴史をご紹介いたします。

※紅花の花弁から抽出される、わずか1%の赤色色素。
 染料、化粧料、食品着色料などに使用される。

1825 紅屋「伊勢半」の誕生

江戸・日本橋小舟町に
紅屋「伊勢半」を創業。

江戸の町人文化が花開き、化粧文化も一般庶民に普及した江戸時代後期、
文政8年(1825年)初代澤田半右衛門が小舟町(現在の中央区日本橋小舟町)に
紅屋「伊勢屋半右衛門」(通称・伊勢半)を創業。

明治期の伊勢半店構え 『東京商工博覧絵.第弐編』 明治18年(1885年)刊行・国立国会図書館所蔵。

初代・澤田半右衛門の胸像。

画像左:明治期の伊勢半店構え 『東京商工博覧絵.第弐編』 明治18年(1885年)刊行・国立国会図書館所蔵。
画像右:初代・澤田半右衛門の胸像。

紅花を使用した
「小町紅」を販売。

良質な紅でつくられた伊勢半の「小町紅」は、玉虫色の光沢で評判に。
江戸時代の人々を驚かせた技術力、探究心、品質の高さにこだわる職人気質は現代に受け継がれ、
今なお当時と変わらぬ製法でつくり続けている。

創業当時の「紅猪口」

現在の「小町紅」

1842 伊勢半変転の時代

幕末から明治維新へ、
文明開化の激動期

二代目、紅の光沢を
いっそう洗練させ、
取引を拡充。

初代に教え込まれた技術と、その繊細な感覚を活かして、
ほかの職人には真似のできない美しい色の紅をつくり出す。

紅の製造風景。紅問屋の店の奥、工場での紅づくりの模様。
紅花の半加工である紅餅から、紅を抽出する作業が描かれている。
この絵は明治初年の京都での紅製造を描いたものだが、江戸時代の「伊勢半」でもこのようにして紅がつくられていた。

三代目の実直な取引で
業務を拡大。

数十人の職人を使う紅屋として江戸に名前を知られる商家に。

にぎわう紅問屋「伊勢半」の店先。
この絵は明治初年頃の様子を後に描いたもの。

出資した銀行の倒産と
輸入染粉の流通に圧迫され、
小舟町の店を手放す。

明治に急増した銀行のブームにのり大株主として出資した銀行が、倒産する。
さらに、幕末の開国により、次第に海外からの化学染料を中心とする新しい染料の流通によって、
致命的な打撃を受け、存続の危機にさらされる。
明治20年(1887年)ごろまでには東京に22軒あった同業者は相次いで店を閉じ、
伊勢半も一等地にあった小舟町の店を整理して、水天宮の裏手にある埋立地の箱崎町に移転。
失意のうちに三代目・半右衛門は明治24年(1891年)5月22日、60歳で死去している。

本紅製造問屋組合設立願(控え)
海外からの安価な染粉の輸入で、本紅の製造業者は大打撃を受け、問屋組合を結成。
画像は、組合代表として尽力したときの状況を伝える組合設立願書で、惣代に澤田半右衛門の名前がある。

1905 伊勢半の再興

関東大震災、五代目の早世

1905明治38年

四代目・亀之助を後ろ盾に
再興を果たした五代目・要之助。

箱崎町から榑正町に移転し、
その後、明治38年(1905年)頃、本所の若宮町(石原町)に移転。
輸入染料の流通によって廃業や化学染料への転進に追い込まれた同業者が多かった中で、
伊勢半が父祖伝来の本紅づくりに固執してきたことが逆に幸いして、
競争相手がほとんどいなくなり、伊勢半も次第に挽回の軌道に向かう。
また、五代目・要之助は、原料の仕入れに才覚を発揮し、それまでに京都の紅屋が一手に流通経路をおさえていた、
品質のいい中国産原料の紅餅を京都を経由せずに買い入れるルートを開拓するなど、積極的な経営手腕をみせた。

四代目・澤田亀之助

山形県の契約農家における紅餅製造の様子

1923大正12年

関東大震災の衝撃。

大正12年(1923年)9月1日の正午直前、史上未曽有の災害をもたらせた大地震が関東一帯を襲った。
地震による火災があちらこちらで起きたため、火勢が迫るのをみて、
五代目・要之助夫婦ほか、四代目・亀之助夫婦、店員、女中らとともに隅田川の河畔に避難。
警察官に誘導されたその場所は、安全な空間であるはずだったが、
上流にあったガスタンクに引火の危険があるということで放出されたガスが川沿いに流れ、
そのガスが爆発を起こして、河畔に猛烈な火焔を吹き込んだ。
その一帯が、瞬時のうちに巨大な炎のるつぼと化し、要之助、妻、店員、女中らもその中にいた。
四代目・夫婦だけが、奇跡的に爆風によって火中から放り出され、生き延びていた。
29歳の五代目・要之助は、再興した伊勢半をさらに大きく発展しつつあった事業をなかばにして、
再び家業を四代目・亀之助に返す結果になった。

五代目・澤田要之助

震災からの再興。

四代目は龍右衛門(後の六代目・亀之助)を養子にむかえ後継者とし、紅づくりの急所をきびしく教える。
関東大震災は日本の経済全体に多大な影響を波及させ、
さらに第一次世界大戦、昭和初年の金融恐慌へと突入していくが、
伊勢半の経営はこうした不況にも影響されることが少なかった。
化粧にたいする女性たちの関心が、暗い世相を跳ね返すように高まっていき、紅の売れ行きはむしろ上昇していった。
また、この頃に皇室御用紅商に認定される。

震災後しばらく仮建築の家屋に住んでいたが、昭和2年(1927年)、石原町の同じ場所に総桧造りの豪壮な新宅を再建。

昭和6年(1931年)11月、店頭に欅の一枚板に金文字を浮き彫りにした大看板を掲げたときの当時の番頭・店員たちとの記念写真。

画像左:震災後しばらく仮建築の家屋に住んでいたが、
昭和2年(1927年)、石原町の同じ場所に総桧造りの豪壮な新宅を再建。

画像右:昭和6年(1931年)11月、店頭に欅の一枚板に
金文字を浮き彫りにした大看板を掲げたときの当時の番頭・店員たちとの記念写真。

海外に向けた視点。

日本が強硬に大陸へ進出した時代を反映して、
中国や満州向けの口紅の輸出が増えていったが、
龍右衛門は、「単純に同じ製品を売り込んでいたのでは競争に勝てない」ということで、
口紅の種類を多くしたり、容器に工夫をして目先を変えることで、値崩れを防ぐ方策を考える。
さらにアメリカのサンプルが持ち込まれて、こういう口紅をつくれないか、ということが、
ねっとりとした油性の口紅をつくる研究をはじめるきっかけとなる。
現在ではこのタイプが一般的になっているが、その当時、日本では新しい品質の口紅だった。

昭和9年(1934年)元日発行の「東京小間物化粧品業界年鑑」に掲載した1貢広告写真。
小町紅(大・中・小)、艶蝶棒紅(桐箱入り)、KOMACHIブランド・リップスティック、
CYMAブランドほほ紅、艶蝶印粉白粉・水白粉。

新時代の口紅を目指す。

連夜の研究で開発した新製品の口紅も時代の評価を得られず、宣伝不足を痛感。
その思いが、戦後、一躍有名ブランドとなった「キスミー口紅」の強力な宣伝に活かされることになる。
「キスミー」のブランドは昭和初期からあり、
当時としては大胆なネーミングと、人目をひく字体(ロゴ)も龍右衛門のアイデアだったが、
「キスミー」が世に知られたのは戦後になってからのことだった。

昭和14年(1939年)2月23日、四代目・亀之助 死去。享年74歳。
六代目・龍右衛門が亀之助を襲名。

1939 第二次世界大戦と
伊勢半の再出発

1939昭和14年

第二次世界大戦開戦。

1941昭和16年

真珠湾攻撃。

出荷量こそ激減したが、口紅を主力として限られた商品の製造を行ってきたこと、
四代目が建てた蔵の中には、少量ながら六代目・亀之助が必死に集めた原料があったことなどから
口紅の製造を続けることはできた。

昭和10年(1935年)、本所・石原町の本店の横に竣工した三階建の鉄筋コンクリートの蔵。

1945昭和20年

B29爆撃機により、焼け野原に。

昭和20年(1945年)3月10日、130機のB29爆撃機による東京大空襲で116万人が被災、
下町を中心に9万人をこえる人命が奪われた。
石原町はもっとも被害が大きく、亀之助はかろうじて焦熱地獄を生き延びたが、
家族も従業員もこの戦災の街で失った。ただ、蔵だけが猛火の中耐え、残った。

廃墟の隅田川周辺。蔵前・本所方面を望む。

敗戦と亀之助の気運。

かけがえのないたくさんの人を失った亀之助は、被災から4か月たった7月7日、千葉の市川市に引っ越した。
荷物を運んだ翌日の8日、石原町の蔵に戻ると、
「召集令状が来た。ただちに連絡こう」と書いてある四角い板で伝言があった。
本所区役所は消失してしまっていたので、臨時に事務を扱う場所になっていた建物に出向いて、
市川の住所へ転送手続きをし、覚悟を固め、召集の日の心構えをしていたが、
その後召集令状はなぜか転送されてこなかった。
8月15日、日本は終戦を迎えた。

紅づくりを再開。

焼跡で紙包みのキャンディ型口紅をつくる。
かつて試行錯誤のすえにたどりついた独自の製法が役立って、原料さえあれば、
鍋と七輪だけの簡単な道具で口紅を調合することができた。
容器がないので、成形した紅の棒を紙に包んで、両端をバター飴のように撚り、
これしかないと問屋に見せると、それでも欲しいといって買っていった。
昭和21年(1946年)飯田橋に移転し「澤田半右衛門商店」の看板で再出発。

1946昭和21年

最初のヒット商品、
「口唇に栄養を」の特殊口紅。

「キスミー特殊口紅」を発売。食糧不足の時代に「口唇に栄養を与える」のキャッチフレーズで、
初のヒット商品となったのがキスミー特殊口紅。
雑誌の裏表紙全面広告等、当時としては斬新な宣伝手法も注目された。

「口唇に栄養を与える」の特殊口紅



特殊口紅の雑誌広告

キスミー特殊口紅を宣伝する車、飯田橋・富士見町の新館前。

1947昭和22年

株式会社伊勢半に改組。

当時を支えた社員たちの記念写真

1950 斬新な商品と宣伝

伊勢半の躍進期

1950昭和25年

「キスミー特殊香水
ヘリオトロープ」を発売。

「超音波醸成装置」によって、短期間でまろやかな香りの商品を
誕生させることに成功したキスミー香水・へリオトロープ。
「やるせない恋の甘さ」というコピーも話題となり、発表1年目から爆発的ヒットに。

特殊香水ヘリオトロープ

発売当時の雑誌広告

1952昭和27年

業界初の
新聞全面カラー広告を発表。

昭和27年(1952年)1月1日付の毎日新聞朝刊に、
業界でも初めての全面カラー広告を発表し世間を驚かせる。
当時はまだカラーフィルムが普及しておらず、人工着色で実現。

1954昭和29年

株式会社エリザベス設立。

1955昭和30年

「キスミースーパー口紅」を発売。

「キッスしても落ちない」という当時としては大胆なコピーと、
男女が今にもキスしようとする瞬間を描写した広告は各所で論争を巻き起こすほどの反響で、
みごとに女性たちの心を捉え、製造が追いつかないほどの大ヒット商品に。

スーパー口紅の映画館プログラム
裏表紙広告

1959昭和34年

伊勢半本社社屋、
千代田区・市ヶ谷(四番町)へ
移転・増設。

昭和29年(1954年)に鉄筋3階建の工場を建設して飯田橋・富士見町から移転し、
昭和34年(1959年)11月に6階建てに増設。

盛大な落成式の様子

六代目のご挨拶を掲載した企業広告

1961昭和36年

「キスミー日ヤケドメクリーム」
を発売。

1965昭和40年

キスミー販売(株)を
株式会社キスミーコスメチックス
に改称。

1966昭和41年

台湾に現地法人を設立。

PSP
(パーフェクト・セルフ・パッケージ)
システム導入

今ではよくみかける、商品を紙の台紙に透明ケースでカバーし、
フックつきラックに掛けて販売するスタイルを業界で初めて導入した「キスミー」。
消費者のニーズを受け止めた販売方法として大きな注目を集める。

1967昭和42年

「エリザベスアイリッド」を発売。

エリザベスから発売したアイリッドは、
業界で初めてふたえまぶた形成用材を化粧品として登録し、大ヒットしたアイテム。
ひとえや奥二重に悩む女性達から支持を受け、ふたえまぶた商材のパイオニア的存在。

1968昭和43年

マーシュ・フィールド株式会社
設立。

1970昭和45年

「キスミーシャインリップ」
を発売。

唇に直接つけても、色のある口紅の上に重ねづけしても明るく輝く唇を演出する、
日本初の唇のつや出し専用として登場した「シャインリップ」は、
パールの金属的な輝きとは違う濡れたような透明感で爆発的なヒットを記録。

1975 次々とヒットを生み出す
化粧品総合メーカーへ

1975昭和50年

「キスミー薬用ハンドクリーム」
を発売。

油性皮膜の従来のハンドクリームとは一線を画したのがキスミー薬用ハンドクリーム。
手荒れを防ぐ長時間の保湿力は注目を集めた。
発売から40年以上を経た今もなお人気の超ロングセラー商品。

自然派スキンケアの
パイオニア「エルフェ」を発売。

業界初の「鉱物油・合成色素・防腐剤」を含まない
自然派スキンケアを打ち出したのが、「エルフェ」シリーズ。
その後さらに香料をも取り除き敏感肌の女性を中心に支持を得た。

1983昭和58年

アイカーケミカル株式会社設立。

1987昭和62年

「キスミー」ブランドの化粧品を
中国で製造販売する事業に着手。

「キスミー薬用リップクリーム」
を発売。

新セルフメイクアップブランド
「キスミーフェルム」を発売。

20年余り続いたPSPシステムは新セルフメイクアップブランド「キスミーフェルム」に受け継がれる。
シンプルで高級感にあふれ、ハイクオリティを表すシリーズとして支持される。
発売から30年以上経た現在もなお、愛され続けるブランド。

エリザベスより
メイクアップシリーズ「ビボ」
を発売。

1988昭和63年

茨城県水海道市に
伊勢半研究所設立。

昭和63年(1988年)7月、研究拠点を市ヶ谷本社から、茨城県水海道市(現常総市)に移す。
開発部門から依頼された商品の研究はもとより、研究部門独自の市場創造型の研究も行う。

高品質・低価格の薬用スキンケア
「リュア」を発売。

機能が明確でセルフでも求めやすい価格のスキンケア商品の
ニーズが高まりつつある中で発売したのが、
薬用効果をアピールした「リュア」シリーズ。
医薬部外品なのに800円の価格設定は驚きをもって迎え入れられた。

1992平成4年

「サンキラー」を発売。

生活紫外線から肌を守る低刺激性サンケアとして、
UVカット効果の高い日やけ止めのクリームとおしろいを発売。
その後、様々なニーズに合わせて選べる日やけ止めシリーズへと発展。

2000 現在

2003平成15年

江戸開府400年記念事業として
神保町に紅資料館を期間限定開館。

2004平成16年

マーシュ・フィールドより
カバーファンデーション
「SC」シリーズを発売。

マーシュ・フィールドは伊勢半グループの中で、もっとも医療現場に近い企業として、あざ、傷あと、白斑、シミなど、
肌の色でお悩みの方のためにカバー用ファンデーションを中心とした「SC(スキンカモフラージュ)」を発売。

2005平成17年

株式会社伊勢半、
株式会社キスミーコスメチックス
を合併。

南青山に伊勢半本店
「紅ミュージアム」を開館。

紅の歴史と文化、そして伝統の技を後世に伝えるため
「伊勢半本店 紅ミュージアム」を運営。紅の魅力を紹介するとともに、
日本で育まれてきた文化や美意識、伝統の技を展示や講座を通じて発信。

「ヒロインメイク」を発売。

いかなる時も完璧な美しさをキープする少女マンガのヒロイン。
「ヒロインメイク」は、そんな女の子の憧れのヒロインに近づくメイクシリーズ。
斬新なパッケージと商品の機能性が支持され大ヒットに。

2006平成18年

エリザベスより「ポアトル」
を発売。

かわいい赤ちゃんのパッケージでおなじみ、毛穴ケア商品「ポアトル」を発売。
「ポアトル 角栓クリアジェル」はその後平成20年(2008年)にクチコミサイトで殿堂入りを果たす。

2007平成19年

伊勢半(天津)化粧品有限公司
設立。

2011平成23年

新「キスミー フェルム」誕生。

優しさの中に、強さも情熱も表現できる大人の女性のためのブランドに刷新。

キスミー フェルム店頭展開イメージ

2014平成26年

「キスミーシャインリップ」の
復刻版を発売。

大ヒット商品「キスミーシャインリップ」シリーズから、人気の4色を復刻版として数量限定で発売。
歴代のシャインリップと昭和の時事を年表形式にまとめた特製小冊子がついた、
限定ボックスも同時に発売し話題を集めた。

「ヘビーローテーション」
クチコミサイトで殿堂入り。

トレンド性と機能性を兼ね備えた「ヘビーローテーション」の「カラーリングアイブロウ」が、
クチコミサイトのベストコスメアワードで3年連続1位を獲得し、殿堂入りを果たす。

2018平成30年

コーポレートブランド
「KISSME」リニューアル。

伊勢半を象徴するコーポレートブランドとして「KISSME」をリニューアル。
新しいロゴを作成し、私らしさを叶えるブランドとして新生「KISSME」を打ち出す。

2019令和元年

KISSME (THAILAND)
Co., Ltd.設立。

伊勢半本店
「紅ミュージアム」を
全面リニューアル。

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